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政治家の劣化 [日常・社会]

自民党の文部科学部会長(衆院議員)がツイッターで、「学校教育の政治的中立性における実態調査」に絡み、次のような趣旨のツイートをして、批判が殺到したらしい。

『「子供たちを戦場に送るな」というのは、政治的中立を逸脱している。そんな発言をした「先生方」は自民党に報告してほしい。』

ここまで議員の質が落ちてしまったのかと、唖然とした。

言うまでもないが、日本を密告社会にしてどうするのか?そんな窮屈で息苦しい世の中、私はまっぴらごめんだ。北朝鮮の真似をしてどうするのか?どうしようもなく呆れる。

それに、「子供たちを戦場に送るな」というのを、政治的中立性云々という視点で見ること自体がどうかしている。子供を持つ親一人一人に聞いてみればいい。子供を戦場に送りたいと本音で思う親が果たしてどれだけいるのか?教師だって、自分の教え子を戦場に送りたいと思うか?

「子供たちを戦場に送るな」というのは、人類が普遍的に持っている価値観ではないのか?人間として本来当たり前に持っている思いを、この文部科学部会長は封じ込めるつもりか?

私の曽祖母は、息子3人(うち1人は私の祖父であるが)に召集令状が来て、3人が出征してから、毎朝欠かさず、近所の寺に願かけに通い続けた。幸い3人とも生きて帰ってくることができたが、子供の無事を願う母親の気持ちはいかばかりのものであったか・・・?曽祖母は私の生まれる1年前に亡くなっているので、直接話を聞く機会は持てなかったが、正直想像を絶するレベルにあると感じる。

私の祖父は出征から帰還まで2年かかっている。その間毎朝曽祖母はお寺に通い続けていたのである。

話を先のツイートに戻すが、もう少し人間の思い、感情というものとまともに向き合ったらどうなのか?我々の先祖や世の中の過去ともまともに向き合ったらどうなのか?机の上の理屈だけで物事をこねくり回すから、こういうおかしなことになるのだ。

今ちょうど、「祖父 大平正芳」という本を読んでいるところだ。大平正芳は1978~80年の首相・自民党総裁だった人物である。著者はその大平の孫。

大平は政治活動の傍ら、著書を何冊も出版しているほどの人物でもある。この本の中でも、その著書の一部が紹介されていて、大平の書いた、こんな一文がある。

「政治をやる人間は、小説を読まなければいけないと思います。小説というものには人間生活全体が現れています。小説から、われわれはしばしば深い問題意識が触発されることがあります。文学と政治は不可分な関係にあるようです。」

大平正芳という人物が、社会や人間というものに対して、実に深い洞察力を持っていたということが、この本を読み進むとどんどん伝わってくる。

そこへ降ってわいたようなこのニュース。本当に同じ党なのかと、疑ってしまう。

今回の件は、政治家として余りにも品格がなさすぎるし、劣化しすぎ。もはや朝青龍や白鵬のことを、どうのこうのは言えない。
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期日前投票の盲点 ~これっておかしいでしょ?~ [日常・社会]

今日の投票日当日に投票に行く人には、直接影響のないことですが・・・。

期日前投票についての話です。実は大きな落とし穴があります。

あまり早くに期日前投票に行くと、最高裁判所裁判官国民審査の投票ができません!!!


私は先週の土曜に期日前投票に行ったのですが、受付で「今日だと最高裁判所裁判官国民審査の投票がまだできませんが、よろしいでしょうか」と係の人に声をかけられました。

頭の中が「???」だったので更に話を聞くと、翌日日曜日から国民審査の投票ができるとのことでした。結局私はその日は投票せず、日曜日に出直しました。

同じ日に別の市町村で期日前投票をした友人は、その国民審査の投票のことは全く気付かず、総選挙の投票をしただけになってしまったそうです。


投票日の1週間前の土曜だと最高裁判所裁判官国民審査の投票ができなくて、その翌日の日曜だと投票ができる。何でこんなことになるのか???


私もちょっと調べてみたのですが、国会議員の選挙の期日前投票は、選挙公示日の翌日から可能となっている一方で、最高裁判所裁判官国民審査の期日前投票は、投票日の7日前から可能となっています。

今回の総選挙に当てはめると、総選挙の期日前投票は12月3日(水)から、国民審査の期日前投票は12月7日(日)から可能となっています。


一般の市民の感覚からしたら、期日を揃えるのが当たり前ではないのか?
現場の選挙管理委員会の人たちにとっても、期日を揃えた方が対応は楽なのではないか?

期日前投票をする人にとっては、著しく利便性を欠く話ではないのか?
国民審査に対する国民の権利を、事実上阻害するものではないのか?
国民審査を更に骨抜きにするために、わざと放置しているのか?
そして、この期日のずれを国民の殆どが気付いていないという現実。

今回の選挙まで全然知らなかった身としては、あまり大きなことは言えませんが、私はそんな疑問を覚えます。


私は、最高裁判所裁判官国民審査の制度が、元々きちんと機能しているとは思いませんし、明日飯が食えるか食えないかという話でもありませんが、だからといって、今のような状況を放置していいとは思いません。これは国民の基本的な権利に関する話だと私は考えます。

そして、これは立法措置で改善可能なはずですし、物理的にも決して不可能な話ではなかろうと思います。

しかしながら、こうした不合理な状況に目を向けるメディア報道は、今のところ全く知りません。国会議員や法曹関係者でも、誰かこの問題を指摘した人はいるでしょうか?


国会議員は衆参合わせれば700人以上いるわけですが、議員の人たちは、あまり関心がないのでしょうか。国民の権利についてもう少し敏感になってほしいと思いますが。

前回の衆議院解散の際に約束されたはずの定数削減を、0増5減だけでお茶を濁し、そして1票の格差について違憲判決が繰り返し出ても、何の抜本的解決も図られていないことが、全てを物語っているのかも知れませんが。

とはいえ、選挙で棄権するのはよくないと思います。我々有権者が棄権しても、政治家たちは痛くもかゆくもないでしょうから。


余談ですが、こうした問題でもし誰かが裁判でも起こして、最高裁までいってしまったら、最高裁はどういう対応をとるのか?判決自体出せるのか?ある意味、裁判官自身の身に直結する話でもあるでしょうから。
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遅ればせながら、日本のハロウィーン「もどき」にモノ申す [日常・社会]

近年、10月末頃になると、ハロウィーンにちなんだ仮装イベントなどが、日本でも色々とみられるようになってきました。テレビのニュースでも報道されるようになってきましたね。

ただ、そういったものを見ていると、どうも私には違和感があります。日本でハロウィーンのイベントを楽しんでいる人には悪いのですが、何か浮ついている感じがします。

カボチャのお菓子を売るくらいはまあありとしても、仮装イベントまで大々的にやるのは、ちょっとやり過ぎではないかなと。

結局のところ、本物ではないんですよね。外見の姿形だけをまねた、借り物を輸入して持ってきたような印象を受けてしまいます。その歴史や精神、背景にあるものはすっ飛ばして、安易な商業主義に乗っかってしまって、踊らされているように見えて仕方がないです。

子供の頃にアメリカで、実際に仮装して近所の家を回った経験のある身としては、今の日本のハロウィーンは、非常に軽々しい薄っぺらなものに見えて仕方がないです。

また私は以前、沖縄の三線を習って、ある程度弾けるようになったのですが、私が沖縄民謡を弾いて歌っても、結局はまねごとに過ぎない、と途中で感じて、今はちょっと三線から離れています。そのことも連想しました。私のような、沖縄に縁もゆかりもない本土の人間が形だけをまねても、結局魂が入っていないんですよ。

先人達がバトンをつないできた、土着のものにこそ、価値がある。私はそう思います。

自分たちの地域に残されている無形財産、オリジナリティというものにもっと目を向けて、大事にした方がいいと私は思います。土地に根差した、体に染み込んだものには、魂があります。地元に伝統的な祭りのある人は、ちょっとうらやましいなと思います。

あるいは、どこにもない新しいものを創り出すか、ですね。うわべだけのまねごとは、どこかで脱しないと、何か落ち着きが悪く、格好悪いです。楽しんでいる人には申し訳ないですが。

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これもメディアの劣化? [日常・社会]

数日前テレビで、読売新聞の新社屋完成式典に首相が出席し挨拶する映像を見ました。

現在国会に法案提出中の特定秘密保護法案に絡めて首相がジョークを飛ばす場面が流されていました。その発言内容は別にどうでもいいのですが、私には何とも違和感が残りました。

メディアが自分の本社の完成式典に現職の首相を呼ぶって、何か変じゃないですか?

読売新聞が招待したのか、首相が勝手に来たのかは知りませんが、報道機関が自分のところのパーティーに、権力の中枢も中枢、ど真ん中の人物を迎えるというのは、報道機関として余りにも緊張感がなさすぎやしないか?

当の読売新聞の記事には、首相が祝辞を述べた、とありますから、読売新聞自身は何とも思っていないのだろうと思いますが。

メディアと権力の距離感というものに、メディア自身が余りにも鈍感・無頓着過ぎやしないか?ズブズブと言われても仕方がない有様ではないか?

私はそう感じました。しかしそのことを指摘する他のメディアは、今のところ目につきません。同業者をあからさまに批判はしない習慣があるのか、その辺はわかりませんが。

さかのぼれば、民主党政権時代には渡辺恒雄氏がテレビカメラの前で、野田内閣支持を公言していたこともありましたが、あれも本来はおかしな話です。

読売はもはやメディアではなく、政商か?
タグ:首相 報道
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プロ野球外国人選手 「助っ人」と書くのはそろそろやめよう [日常・社会]

最近のメディア報道を見ていると、時々そのセンスに違和感を持ってしまうことが私はあるのですが、プロ野球で勝利に貢献した外国人選手たちを、今シーズンもまるで決まり文句のように「助っ人」と表現し続けていた報道に、私はちょっと疑問を感じています。

「助っ人」という表現から捉えるイメージは、厳密には人それぞれでしょうが、私はこの言葉の背後に、「自分たちとは違う、よそから来た人」で「いずれはいなくなる人」という臭いをとても感じてしまいます。

確かに、外国人選手の平均在籍年数は、実際には日本人選手と比べればかなり短いはずで、大きな期待の中で迎えられる彼らは、結果が出なければ1年でも解雇されてしまう立場に置かれています。

しかし、彼ら外国人選手の大半は、間違いなくチームの主力として迎えられているわけで、見方を変えれば、日本のプロ野球には欠かせない存在です。にもかかわらず、本当に自分たちと同じチームの一員として捉えているのかどうか、「助っ人」という言葉にはどうも私は疑問を感じます。

実際の現場ではきっと間違いなくチームの一員なのだと思いますが、それを報道する記者たちの意識はどうなのか?

戦力の補強という面では、FA制度ができて以来、補強される選手は必ずしも外国人だけではなくなっています。しかしその補強で獲得された日本人選手が「助っ人」と呼ばれることはありません。

更に日本人選手に目を向けるならば、昔とは違って、たとえ日本人選手であってもずっと日本のプロ野球にとどまっているとは限らず、優秀な選手は何年かすると日本を離れてしまうことが少なくないのが現状です。更には野茂や松井秀喜、長谷川などのように、日本に戻らずにそのまま引退してしまう選手も出るようになっています。日本人選手そのものも、ドメスティックな存在ではなくなりつつあります。

その一方で、ラミレスのように、日本へ来て2000本安打を達成するような外国人選手も現れるに至っているわけです。もはや日本のプロ野球を代表する、そして日本のプロ野球の歴史にも名を刻む存在です。それでも「助っ人」なのでしょうか?

もっと言うならば、近年は外国人選手といってもアメリカのメジャーリーグの選手を引っ張ってくるばかりではなく、ヤクルトや広島のように自前のアカデミーで育成した選手を連れてきたり、あるいはマエストリのようにイタリアから来る選手もいます。外国人選手といっても、ひとくくりにするには無理があります。

別のスポーツに目を向けると、サッカーのJリーグでもかなり多くの外国人がプレーしていますが、彼らを「助っ人」と書く報道は、あまり見た記憶がありません。これは一体どういうことなのか?

私は報道の現場を知っているわけではありませんが、プロ野球担当の記者が、今まで先輩記者が多用してきた用語を、何の疑問もなくただ引き継いで使っているだけのように、私には思えてきます。これはプロ野球報道に限った話ではありませんが。

報道の現場は忙し過ぎるのかも知れませんが、世の中で起こったことを世間に伝える仕事をしている人たちが、世の中の変化をあまり捉えていないように見えるのは、奇妙な矛盾に思えます。

とにかく、外国人選手を何でもかんでも安易に「助っ人」呼ばわりするのは、そろそろやめませんか?
タグ:報道 野球
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失敗について [日常・社会]

著名人の人生訓などを読むとよく出てくる言葉に、「失敗を恐れるな」というのがあります。社会で成功を収めた人たちが、よく口にする言葉でもあります。

それは確かにその通りで、人生を進むにあたっては素直に受け入れた方がいい言葉だと私も思います。

しかし、その一方で我々凡人は、「失敗を恐れるな」と言われると、却って身構えてしまったり、失敗を恐れてきた自分を克服しようとするあまり、心の奥底で更に失敗を強く意識してしまっていたりすることもあるのではないかとも思います。

私も自分自身の人生で挫折や行き詰まりを経験しましたが、そんな中でふと思いました。こう考えたら、もっと気が楽になるのではないかと。

「人生はどこかで失敗するようにできている」

文字面だけを見ると、ネガティブな発想のように思われてしまうかも知れませんが、私の真意はそうではありません。

年配の方ならきっと体感している人が多いのではと思いますが、長い人生、程度の差こそあれ、みんなどこかで失敗します。失敗は避けようとしても、どこかで経験します。だから、失敗してもいいんです。

(もちろん、いい加減にやっていて招いた失敗については、これは厳しくその姿勢を問われないといけないでしょうし、誰かを生命の危機に陥れるような重大な失敗は、当然避けなければいけませんが)

大事なことは、「失敗した後に、その失敗をどう自分で受け止めるか」あるいは「どうやり過ごすか」ではないかと。

「失敗を恐れるな」という言葉は、文字面通りの意味、また、チャレンジ精神が大事だという意味の他に、こういう捉え方をしてもよいのではないかなと、私は思います。
タグ:失敗 人生
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すわり小便考 [日常・社会]

一般家庭の洋式便座で、男性が小便をする時、立ってするか、座ってするか?

知人夫婦の家では、奥さんから旦那にすわり小便の指令が下っていて、過去私がお宅を訪問した際も、トイレを借りる前に旦那からすわり小便を耳打ちされたことがありました。

以前何かのテレビ番組でも話題になって、男性の間でも賛否両論に分かれていたように思います。すわり小便反対派からは、「たっての願い」などとダジャレも飛んでいましたが。

世間ではどうなのでしょうか。普段男性同士でも、そういう会話はまずありませんので、全くわかりませんが。

私自身はといえば、洋式便座でのすわり小便には、正直あまり抵抗はないですね。

その格好を見られたり想像されたりするのは確かにみっともないという感覚はあります。でも個室ですから実際誰に見られるわけでもないですし、自分で便所掃除をする時を思い起こすと、座って使った方が掃除は明らかに楽です。

家庭内での立ち小便とすわり小便の統計をもし取ったら、どのくらいになるものでしょうか。誰も調査しようとは思わないでしょうが、ちょっとだけ興味があります。
タグ:トイレ
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「頑張れ」という言葉 [日常・社会]

私は人に対して「頑張れ」という言葉は言わないようにしています。自分自身も正直のところ、あまり好きな言葉ではありません。

「頑張れ」という言葉に込める意味は、人それぞれ違うと思います。だから全てを否定するつもりはありません。

ただ、自分が人から言われた時のことを思い出すと、これ以上何を頑張れと言うのか、という思いを抱いたり、何か相手に突き離されたような印象を持ってしまったこともありました。この「頑張れ」という言葉は、究極の抽象的な表現かも知れません。

また、自分が人に対して「頑張れ」と言ったことは、記憶では一度だけありますが、自分で口に出してみて、あまりいい感じもせず、以後使わないようになりました。

「頑張れ」という言葉は、自分自身に対して言う言葉だと私は思うことにしています。本気で人を応援したい時は、何か別の言葉を探すようにしています。
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席を譲ると気分がよくなる [日常・社会]

先日休みの日に、電車で人に席を譲りました。

平日朝の満員電車ではなかなかそんな余裕はなく、目の前の席が空いたらどんどん座って、立っている人たちのスペースを少しでも早く作ることを優先せざるを得ませんので、これは休日ならではの体験だったかも知れません。

ある駅で、山登りかハイキング風の60代くらいのおばさんが5~6人乗ってきて、1人か2人席に座れない人が出ました。疲れているっぽい様子だったので、私が席を譲りました。最初はその人も遠慮しているようでしたが、どうぞどうぞという感じで譲ってあげました。

一番よかったのは、やりとりの中でお互い笑顔を交わせたことですね。これが肝です。

人に親切をとか、自分の方が年が若いから譲ろうとか、相手が疲れているようだからとか、きっかけは色々かと思いますが、譲って笑顔を交わした瞬間に、そんな理屈は吹っ飛んでしまいますね。実にシンプルです。

人を牽制したり警戒したり、クレームをつけたり、不機嫌な顔でピリピリしながら生活するより、私はこういう感情を大事にしながら日々過ごしたいなと、改めて思いました。
タグ:鉄道
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身障者用トイレの重要性 [日常・社会]

最近、公共の場所で、車いすマークのついた、大きめの個室トイレをよく見かけるかと思います。身障者用のトイレですね。男子用トイレと女子用トイレの間などによくあります。

ところでこれ、実は身障者の方々以外にも、とても重要な存在なんです。

どんな人にとって重要かというと・・・。ズバリ、要介護者です。要介護者にとって、この大きな個室トイレは、必要不可欠です。

介護の現実に目を向けると、「老々介護」という言葉は一般の人もよく耳にしているかと思います。

これをもう一歩踏み込んで考えると、これは、夫を妻が介護したり、あるいは妻が夫を介護したりする実態を意味しています。

すなわち、女性が男性を介護したり、あるいは男性が女性を介護しているわけです。

要介護者の中には、自分で用を足すことがうまくできない、トイレで介助が必要な人が少なからずいます。そういう要介護者と一緒に外出して、その外出先で要介護者がトイレに行きたくなった場合、どうなるでしょうか。

要介護者が女性の場合、身障者用の個室トイレがない場合、介護をする男性が女性用トイレに一緒に入るしか、方法がありません。それを女性の方々は容認できますか?

これが男性と女性が逆であれば、まだ何とかなるかも知れませんが、それでもお互い気を使わざるを得ないことには変わりないでしょう。

なので、この身障者用トイレがあると、介護の必要な人や介護する人間はとても助かるんです。また実際にトイレの介助をするには、スペースが広い方が介助しやすいですから、本質的な部分においても大いに助かります。

身障者用の車いすのマークのように、介護マークというのを静岡県が制定して、普及浸透を図っているというニュースを、最近知りました。私はまだその介護マークというのは見たことがないのですが、そういうマークはあった方がいいと思います。

そしてこの身障者用トイレにも、そのマークを貼ってもらった方が、世間の理解がもっと進むように思います。さらには、この身障者用トイレが、駅など公共の場にもっと設置されるとよいなと思います。

国としてはこういったマークはまだ制定されていないようですが、国も早く何らかの取り組みをしてもらいたいと思います。
タグ:トイレ 介護
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