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「偽りの明治維新」 星亮一著 大和書房(だいわ文庫) [歴史本]

かなりインパクトのあるタイトルの本です。古本屋で見つけて買いました。

著者の星亮一は、幕末の東北や会津の本を数多く書いている歴史作家です。私も何冊か読んだことがあります。

この本には会津戊辰戦争のことや、幕末の京都守護職を取り巻く状況、大政奉還前後の動き、斗南藩と廃藩置県、明治の世で会津人がどう生きたか、などが書かれています。

この本が出版されたのは2008年ですが、2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の内容と符合する部分がかなり多くありました。「八重の桜」は近年の大河ドラマの中ではかなり史実に忠実な印象を私は持っていましたが、それが改めて実感できました。

例えば、
・大政奉還の直接のきっかけとなった討幕の密勅は偽勅であった
・旧藩主松平容保は晩年、孝明天皇の宸翰の存在を世に出すことを旧家老・山川浩に対して切望し、託して亡くなった
・その宸翰の存在を知った薩長側は、しばらく公表しないよう求めた
など、大筋では一致するものでした。

ドラマで描かれなかった点としては、
・会津を攻めた官軍には分捕り部隊が存在し、会津藩士の屋敷から刀剣、陶磁器、金銀財宝等を略奪し、それらは江戸から乗り込んだ古物商によって買い取られていった
・会津降伏後、官軍は戦死した会津藩士の埋葬を許さず、死体は烏や野犬の餌食となってしまった
・会津藩の処分については、薩摩は穏健の傾向があったが、長州の木戸孝充が厳罰を貫いた
などがあり、会津人の長州に対する深い恨みの原点を知ることができます。

とはいえこの本は、会津びいき一色というわけでもなく、会津藩が旧態依然とした体制を続け、藩政改革で遅れをとり、藩内の農民対策もうまくいっていなかった点などにも触れています。

さて、幕末維新期の会津藩のことを知るにつれ、私は一つ思うことがあります。

ここ数年、主に太平洋戦争に関連して、日本は周辺諸外国との関係が非常に不安定になってきています。

それに関しては、立場により色々な見方があるのでしょうが、ちょっと待てよ、と私は思います。

周辺諸外国とのことをどうのこうの言う前に、140年余り前に我々の国の中で起こったことに、まずは目を向けた方がいいのではないかと、私は思います。

この会津を巡る諸々のことについては、勝った側、攻め入った側が正義だと信じていたことが覆される事実が明らかとなった後も、公式の場で何もけじめがつけられないまま、140年が過ぎてしまっているように思えます。事実を事実としてきちんと受け止めることなく、適当にお茶を濁したり、うやむやにしたり、水に流そうなんていうのは、やはり無理があるのではと思います。


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第十六代徳川家達 樋口雄彦著 祥伝社新書 [歴史本]

徳川家といえば、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の大政奉還までは教科書にも出てくるかと思いますが、その後はどうなったのか、一般的にはあまり知られていないと思います。

この本では、明治以降の徳川家を背負った第16代の徳川家達(いえさと)のことが詳しく書かれています。

この徳川家達という人物は、慶喜の子ではありません。1863(文久3)年に徳川御三卿の田安家に生まれ、鳥羽伏見の戦いに敗れ隠居謹慎となった慶喜に代わり、4歳で家督を相続しています。

明治維新で徳川家は駿河・遠江70万石の一大名となり、静岡へ移ります。廃藩置県によって東京へ戻り、明治新政府の定めた華族制度では一番上の公爵の地位を与えられます。

そして憲法制定後は貴族院議員となり、1903(明治36)年には貴族院議長となり、1933(昭和8)年まで30年間議長を務めます。その間に、1921(大正10)年には軍縮を協議したワシントン会議に全権委員として参加し、またその前の1914(大正3)年には、首相就任を天皇より打診され固辞したりもしています。そして太平洋戦争を前に1940(昭和15)年に76歳で死去しています。

経歴を見ただけでもびっくりするようなことばかりですが、同時に、武家の時代が終焉した後の新しい世の中における徳川家の役割、立ち位置というものを、慎重に見極めて行動していた様子もうかがえます。

また、慶喜との関係は微妙なものがあったようで、家達自身は、徳川家は15代で一旦終わりになり、自分の代から新しい徳川家が始まった、というような意識を持っていたようです。

内容的には事実を淡々と追い続けた感じの文面で、家達自身の内面に迫るような場面はそれほどありませんが、関連する文献を丁寧に拾い上げて書かれています。歴史の盲点を埋める一冊と言えると思います。


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タグ:徳川家
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PHP文庫 「阿部正弘」 祖父江一郎著 [歴史本]

阿部正弘といえば、幕末の黒船来航時に幕府老中首座の地位にあり、その後の日本の進路に大きな影響を与えた人物の一人として知られています。

備後福山藩の大名家に生まれ、25歳で幕府老中に抜擢され、天保の改革で名が知られる水野忠邦の失脚後に、27歳で老中首座に就任しています。譜代名門の出身である一方、人材登用にも積極的であったといわれています。

黒船来航に際して阿部正弘のとった対応については、あれから160年近くたった今でも、その評価は定まっていないようにも思います。幕府という枠にとらわれずに、かなり先の見通せる政治家だったように思える半面、幕府の弱体化やその後の政治や社会の混乱を招く大きなきっかけを作ったともいえます。

阿部正弘は日米和親条約締結後、老中首座を退き、日米修好通商条約締結の前年の1857年、39歳の若さで病死しています。肝臓癌だったようですが、これは明らかにストレスで寿命を縮めた例ではなかったかと思います。

この本は伝記というよりは歴史小説という感じです。どこまで史実が引用されているのかは、阿部正弘に関する本を何かもう一冊読まないと、ちょっと判断はつかない感じです。

内容的には、登場人物の会話の部分がたくさん出てきて、かなり創作が多いような印象を受けます。ただ、歴史になじみの薄い人が、物語として読むには良い本ではないかと思います。

余談ですが、福山城はJR福山駅の目の前にあります。新幹線からもよく見えます。阿部正弘は江戸の生まれで、また若くして幕府中枢に登用されたため、生涯でお国入りしたのは一度しかなかったようですが、私もチャンスがあったら訪れてみたいと思います。
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PHP新書 「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古著  [歴史本]

坂本龍馬の暗殺は、幕末の大事件でありながら、その暗殺者について、いまだに諸説入り混じっています。私も今更ながら、龍馬暗殺に関する本を初めて読みました。

この本でも、一番有力とされる幕府見廻組説をはじめ、薩摩藩説、新選組説、紀州藩説など、色々紹介されています。しかし一読してみると、やはり幕府見廻組が暗殺した、という見方が、一番説得力があるようにも思います。

幕府見廻組説は、明治に入り、見廻組に当時所属した今井信郎がこの龍馬暗殺のことを供述したことが根拠になっていますが、それ以外にも、関係者がのちに様々な証言をしています。

これらは例えば人数など部分的に食い違っている箇所もありますが、いずれもかなり具体的で共通点が多くみられます。ちなみに供述した今井信郎は見張り役だったようで、佐々木只三郎も龍馬のいた部屋には踏み込んでいないようです。

一つ留意すべき点として、見廻組の「犯行」という表現は、やや問題があるかも知れません。彼ら関係者はいずれも、「職務」として暗殺を実行したと話しています。薩長同盟成立直後に寺田屋で龍馬が幕府の襲撃を受け逃れた際に、龍馬がピストルで刺客数人を撃ち殺しており、龍馬は見廻組によって手配中だった、というのがその理由になっています。

また、龍馬は幕府にとっても朝廷にとっても不要の人物であるという認識を、彼ら自身が持っていたとも供述しています。このような当時の雰囲気が薩摩藩説を生むことにもつながっていたのかも知れません。

龍馬暗殺が現在も謎に包まれている背景には、見廻組の職務の常として、暗殺に関与した者が幕府内でも殆ど事実を口外しなかったことと共に、暗殺直後から、すでに各藩でそれぞれ全く異なる見立てをして、それが様々な文書に残されていることも影響しているとみられます。


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PHP文庫「松平容保」 [歴史本]

著者は葉治英哉です。この文庫の伝記物のシリーズは、伝記というよりは歴史小説風で、かなり創作が入っていたりするのですが、この「松平容保」に関しては、資料や文献も多く引用されており、史実をかなり反映させているように思います。

松平容保は幕末の会津藩主で、「まつだいらかたもり」と読みます。

元々は美濃高須藩に生まれ、会津藩に養子に入っています。ちなみに兄慶勝は尾張藩へ、また兄茂徳は一橋家へ、弟定敬は伊勢桑名藩へ養子に入り、明治維新を迎えています。

会津藩は幕末に攘夷の嵐が吹き荒れる中、幕閣からの再三の説得により京都守護職を引き受けざるを得なくなり、京都の治安維持にあたることになります。またこの頃、弟定敬も京都所司代となり、兄弟二人が京都で幕府を支えていました。徳川慶喜が15代将軍になった頃を指して、一橋家出身の慶喜と合わせて、一会桑政権とも呼ばれています。

在京大名の中で孝明天皇から最も信頼の厚かった松平容保ですが、会津藩は新選組を保護下においていたこともあり、長州などから恨みを買う立場となり、鳥羽伏見の戦いの後は一転して朝敵の汚名を着せられることになります。

司馬遼太郎は確か東北人を「利害より道理を重んじる」と評していましたが、この松平容保からもそういうものを感じます。

会津藩にとっては百害あって一利なしの京都守護職の役目を引き受け、徳川慶喜には鳥羽伏見の敗戦の際に無理やり大坂城から江戸まで同行させられながら、江戸到着後には早々に江戸城登城を禁止され江戸から追い出される形となってしまいます。そして江戸城総攻撃中止の代償のごとく、会津は新政府軍の格好の標的とされてしまいます。

降伏・謹慎の後、青森の下北半島に名ばかりの3万石を与えられ、会津藩は「斗南(となみ)藩」となりますが、数年後に廃藩置県を迎えます。容保はその後東京移住を経て、日光東照宮の宮司となり、さしたる弁解も一切しないまま一生を終えています。

現代人や西洋人の感覚を当てはめてしまうと、松平容保は単なる要領の悪い、自己主張の下手な人間に思われてしまいかねないですが、私は松平容保の精神性に一種の品格のようなものを感じます。

しかしこれは松平容保に限った話ではなく、この時代には他にもそういう武士はたくさんいたと思われます。幕末維新に来日した西洋人の中には、当時の日本人たちを見て、まるで神様のような人格の持ち主だと評した人もいます。

今の日本からはとても想像がつきませんが、単純にこの時代の日本人が我々現代人より優れていたというわけでもないでしょうから、こういう人たちを生み出した背景というものにも目を向けなければならないでしょう。
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中公新書「大平正芳」 [歴史本]

大平正芳が亡くなって今年で30年、70歳で亡くなっていますので、今年は生誕100年ということになります。

この本は2008年の暮れに出版されていますので、比較的新しい本だと思います。著者は福永文夫です。

昨年亡くなった田英夫元参議院議員が、昔の首相(当然自民党の首相を指しますが)は考えがものすごく深かった、とテレビのインタビューで生前語っていましたが、その中に恐らくはこの大平も含まれるのだろうと思いながら、この本を読みました。

大平政権について世間で語られることは現在殆どありませんが、私が大平元首相について頭に残っていることといったら、
・自民党総裁予備選で、福田赴夫有利という大方の予想を覆し第一位となり、そのまま首相就任
・一般消費税導入を総選挙で訴えて過半数割れの大敗
・選挙後首相指名を誰にするかで自民党内が大もめにもめた40日抗争
・野党提出の大平内閣不信任案に対して自民党非主流派が欠席し、可決され衆議院解散
・選挙期間中に入院しそのまま死去
というあたりでしょうか。

これらに関することもこの本には色々と記されていますが、むしろ首相になるまでの間について、半分以上のページが割かれています。

大平というと、三木武夫、田中角栄、福田赴夫と並んで三角大福と呼ばれていますが、三木や福田が大平より裕福な育ちだったというのは、この本で初めて知りました。

また、岸信介とはそりが合わなかったようで、岸についてはただ単に同じ政党に属している人としてしか大平は見ておらず、非常に冷ややかなスタンスを取っていたことも、この本からわかります。

政治の世界で「日米同盟」というのが強調され始めたのは、中曽根政権の頃だったように思いますが、日米関係について「同盟」という言葉を最初に使ったのは、大平政権だったということも、この本には記されています。大平というと、吉田茂や池田勇人の直系のいわゆる保守本流で、軽武装経済優先主義のイメージが強かっただけに、このことはちょっと意外でした。

更には、大平政権時代、民間人を登用して9つの政策研究会を政府内に立ち上げていることも記されています。「地球社会の時代」「文化の時代」「地方の時代」への対応がその狙いだったようです。いずれもリーマンショック後の現代にも通じる課題であり、その先見性は注目に値するところです。故田英夫議員のいうところの「昔の首相は考えが深かった」というのは、この辺にもだぶってくる話なのかも知れません。

この政策研究会には大平の意向で、21世紀に第一線で活躍することのできる、当時30代から40代の人たちが中心に選ばれています。この本の末尾に、そのメンバーの一覧が載っていますが、阿木燿子や橋田寿賀子、榊原英資、佐々淳行、曾野綾子、野口悠紀雄、浅利慶太、小松左京、渡部昇一、桐島洋子、西部邁など、現在も各界で活動している人たちが多く含まれています。

大平の急死もあって、存命中に報告書を提出できたのは、3つのグループにとどまりました。政権の後半は政争に翻弄され、わずか2年足らずで大平内閣は消滅してしまったため、これらの成果がその後十分に生かされたのかどうかは、よくわかりません。

大平は政治家としての多忙な日々の中、多くの著作も残しています。それらにも少し興味が湧いてくるような一冊でした。


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中公新書「脱藩大名の戊辰戦争」 [歴史本]

「脱藩大名」という、聞いたことのない単語というか、そもそもあり得ない概念の言葉が目を引いて、読んでみた本です。著者は中村彰彦で、会津藩をはじめとして、敗者の幕末維新史に関する著作を数多く発表している人です。

この本の主人公は、上総国請西(じょうざい)藩1万石の元藩主林忠崇(ただたか)です。請西藩というのは、地図で見ると、現在の千葉県木更津市請西に陣屋跡があります。

大政奉還の年に数え20歳で藩主となり、戊辰戦争では家老以下大勢の藩士を引き連れ脱藩して新政府軍と戦い、仙台で降伏しています。

脱藩に際し旧幕府遊撃隊と合流し、房総半島の館山から伊豆半島の真鶴へ海を渡り、箱根で新政府軍と衝突しています。箱根でそんなことがあったとは全く知りませんでした。なお、この戦いには伊庭八郎も加わっています。伊庭八郎は戦闘で左手首を切られ、結局切断手術を受けるに至っています。

また、彼らは略奪や虐殺、代金の踏み倒し等の行為が一切なかったため、現地の住民たちによる密告などを受けることもなかったと書かれています。

さて林忠崇は降伏、謹慎の後、旧領地で農業に従事し、転じて東京府に出仕したものの程なく辞職し、その後は豪商の番頭となり、更には大阪府に出仕したりと、職を転々としています。太平の世であれば間違いなく大名として一生を終えたはずの人です。

他の旧大名は明治の世では子爵以上の身分が与えられていましたが、この請西藩の場合は藩主が脱藩した上に新政府軍に敵対し、戊辰戦争終結を待たずに領地を没収されていたこともあり、単なる士族としてしか扱われませんでした。

生活はかなり苦しく、旧家臣たちが家格再興に遁走し、紆余曲折の後明治26年になりようやく華族に列せられ、昭和16年に94歳で没しています。最後の殿様としては、昭和12年・96歳まで生きた旧広島藩主・浅野長勲が一般的には知られていますが、それよりも後に亡くなっています。ですので、この林忠崇こそが、おそらく旧大名としては最後の生き残りだったと思われます。

人物は文武に通じ大名としての一通りの教養は身につけていた人だったようで、自ら戦記を残し、また絵も描いたりしています。絵といっても芸術の範疇に入るような絵ではなく、挿絵のような感じですが、謹慎中や農作業をしている自分の姿をコメント入りで残したりもしています。

晩年には底の浅からぬ人柄を感じさせる狂歌を三首作っていますので、最後に紹介します。

冥土からもしも迎ひが来たならば八十八を過してののち
冥土からまたもむかひが来たならば九十九迄は留守とこたへよ
留守といわばまたも迎ひが来るべしいつそいやだと言切るがよし


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徳川慶喜 増補版 [歴史本]

中公新書から出ています。著者は松浦玲です。初版は75年に発行され、この増補版は新たな参考文献を加え97年に発行されています。

私が徳川慶喜をまともに知ったのは、98年のNHK大河ドラマの時でした。それ以来、徳川慶喜に関する本は何冊か読んでいますが、この本はそれらよりかなり詳しく書かれていました。ですので、初心者の人にはこの本はちょっとしんどいかも知れません。

徳川慶喜というと、江戸幕府第15代将軍で、大政奉還をした人物として教科書に載っていますが、実は将軍になるまでに複雑な経緯をたどっています。

水戸徳川家・徳川斉昭の七男として生まれ、徳川御三卿・一橋家に養子に入り当主となります。その後文久の幕政改革により、まだ若年だった14代将軍家茂の将軍後見職となりますが、朝廷との政治的駆け引きの中で職を辞し、今度は一転して朝廷からの任命により禁裏守衛総督となります。

慶喜なりに幕府の利益を考え京都で奮闘するものの、京都の情勢に疎い幕府首脳からは、朝廷を利用して自分が幕府の実権を握ろうとしているのではと疑念を持たれたり、なかなか慶喜の意図が伝わらず、朝廷と幕府の間で宙に浮いた存在だったことが、この本からは読み取れます。

またこの本では、慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて謹慎した後のことについても詳しく書かれています。約30年間の静岡での隠居生活の後、東京に戻り公爵の爵位を授けられ、大正2年に東京で亡くなっています。結果的に、幕末維新の他の登場人物たちよりも長生きしています。

渋沢栄一らかつての家臣が慶喜の伝記を編纂するために、慶喜から直接話を聞いたりする様子も書かれています。慶喜を招いて質問する会合は合計17回も開かれたそうです。伝記は本人の死後作られることが多いですが、慶喜の場合は存命中だったため、当の本人に直接確認しながら編纂が進められました。

ちなみに慶喜自身は大政奉還という言葉は使わず、一貫して「政権返上」という表現を用いています。また、将軍後見職については、実際は何の権限も与えられていなかったと語っています。

巻末には、慶喜が撮影した写真なども載せられています。慶喜は明治の世では趣味に没頭し、写真にも相当凝ったようです。慶喜の直系の子孫はカメラマンになったりもしています。弟の徳川昭武も写真を数多く撮っていて、庶民を撮影する慶喜の姿を昭武が写したという珍しい写真もあります。
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中公新書「ある明治人の記録」 [歴史本]

副題は「会津人柴五郎の遺書」となっています。会津藩士の家に生まれ、10歳で明治維新を迎え、大正時代には陸軍大将になった人の足跡がまとめられています。

戊辰戦争で明治新政府軍と会津藩を含む奥羽越列藩同盟が戦ったことは教科書にも出てきますが、敗れた会津藩がその後どういう道をたどったのかは、あまり知られていません。この本ではその辺りのことがとても詳しく書かれています。

会津藩は一旦は取り潰しとなったのですが、その2年後に今の青森県の下北半島のあたりに3万石で斗南(となみ)藩として再興が認められました。しかし3万石といっても耕作できる土地には既に地元民が住んでいて、新たに土地を開拓するといっても気候も厳しく、結局実際は7000石程度しか米は獲れなかったようです。会津藩丸ごと島流しにあったようなものだったといえるかも知れません。

維新前の会津藩は京都守護職だったこともあって、実収入は約68万石だったようです。維新をはさんで、率にして1%ちょっとに収入が激減したわけです。今の大卒の新入社員が20万給料をもらったとして、翌月から月2000円で暮らせと言われたらどうするか?どういう生活が待っているのか、とても想像できません。

斗南藩は結局わずか2年で廃藩置県を迎え、殿様は政府の命令で東京に集められ、家臣たちの中にはまた会津に戻った人もかなり多かったようです。この主人公も会津に戻っていますが、そこでもまた過酷な生活が待っていたようです。

80年のNHK大河ドラマ「獅子の時代」は、一説にはこの本がモデルになっているともいわれています。主人公は菅原文太演じる会津藩士平沼銑次と、加藤剛演じる薩摩藩士刈谷嘉顕という架空の人物でしたが、平沼銑次も下北半島へ移住し、そこで父を失っています。また平沼銑次の弟は陸軍に入隊しており、この本の内容に通じる部分が色々あります。今はレンタルビデオでも借りられます。


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新潮新書「武士の家計簿」 [歴史本]

著者は磯田道史という若手の研究者です。江戸時代の武士に対して我々が抱いている常識を覆させる一冊です。歴史好きの人にも歴史にあまりなじみのない人にもぜひお薦めしたい本です。

この本は幕末から明治にかけて生きた、加賀藩の御算用者(いわゆる経理)の猪山家が書き残した日記や手紙などから明らかとなった、当時の武家の暮らしぶりが書かれています。

それは我々がこれまで持っていた武家のイメージを一変させます。私が一番驚いたのは、とにかく武家が貧乏だったということです。武士の身分を維持する為に冠婚葬祭その他膨大な費用がかかり、自分達が自由にできるお金はむしろ使用人の方が沢山持っていた、という事実は、水戸黄門や大岡越前を見ていても決してわからないことです。

支配階級である武士が金に困り借金を重ねる一方で、商人や農民はどうだったか。商人は利益をどんどん上げるものの、社会的には卑しい身分と思われ、藩に多額の寄付をして苗字帯刀など武家の特権を手に入れようと努力したりしていたケースもあったようです。また農民が一揆を起こしたりするのは、凶作の年などに年貢の減免を求めるためであり、武家政権そのものを転覆させようとするような動きは皆無に等しかったようです。

江戸時代に農民革命が起こらなかったのは、武士の貧窮ぶりを普段から知っていたからではないかと、この本では言っています。だから江戸幕府は200年以上も続いたのかも知れません。

また江戸時代の武家は、親戚付き合いが非常に密だったようです。どこまでが親戚かを藩に届け出ていたりしています。また嫁入りした妻は実家とのつながりが非常に深く、出産費用も大半を実家が負担したり、また冠婚葬祭でも実家の援助を度々受けています。

更にこの本では、明治維新の頃の様子についても書かれています。明治維新で士族は皆没落してしまったかのように思われていますが、実はそれは正確な見方ではないということも書かれています。

明治維新後も同様の地位を維持できたかどうかは、新政府に出仕できるかどうかにかかっていたようです。新政府の役人の給料は、役人になれず民間に雇われたり家賃収入で暮らした士族の収入と比べると、何十倍も上回っていたようです。明治政府の役人がそこまで高給取りだったとは、私も全く知りませんでした。

また、士族の目から見た文明開化の激動についても色々書かれています。武家の娘が商家に嫁いだり、太陽暦が導入されたり、日々の暮らしがどう変わっていったかということが実に興味深く書かれています。

この本に書かれていることは、まさに歴史の盲点です。知らないことだらけで、とても勉強になります。こういった武家の実情に焦点を合わせた時代劇や歴史番組がもっと増えて欲しいですね。


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