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ペリー公園 [幕末維新]

1853年の黒船来航で、ペリー一行が上陸した海岸にある公園です。横須賀市の久里浜にあり、公園内にはペリー記念館(無料)もあります。

ペリー公園 1
ペリー公園 2

公園の中心に、ペリー上陸記念碑があります。かなり巨大な石碑です。記念碑の碑文は伊藤博文が書いたそうです。戦時中は敵国の記念碑ということで引き倒されてしまったようですが、戦後再び建てられ現在に至っています。

ペリー上陸記念碑 ペリー上陸記念碑 背面
ペリー上陸記念碑 碑文
ペリー上陸記念碑 航海図
ペリー上陸記念碑 案内文

ペリー記念館は2階建ての小さな建物なので、じっくり丁寧に見ても30分もあれば十分ではないかと思います。当時の日本人が描いたペリー上陸の様子の絵などが展示されています。

ペリー記念館

記念館の入口脇には、ペリーと浦賀奉行・戸田伊豆守の胸像もあります。

ペリー銅像 戸田伊豆守銅像

http://www.kanagawaparks.com/yokosuka/perry/index.html
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隅田川 勝海舟像 [幕末維新]

東京の墨田区役所の脇、隅田川との間の広場の端に建っています。浅草からも徒歩圏内です。

この場所自体は、特に勝海舟に縁があるというわけではないと思いますが、生誕の地が同じ墨田区内の両国ということで、この場所に建っているのではと推察します。

2003年に勝海舟生誕180年を記念して造られたようですので、かなり新しいですね。

わざわざこれだけを見に行くほどのことはないと思いますが、この一帯は東京スカイツリーもよく見えますので、浅草見物がてら足を伸ばしてみるのも悪くはないでしょう。

隅田川 勝海舟像
隅田川 勝海舟像 建立の記
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黒船見張所 [幕末維新]

下田の寝姿山に復元されています。伊豆急下田駅近くのロープウェイを使えば簡単に行けます。

この見張所は、幕末の開国前に幕府が外国船に備えて設置したようです。下田港が一望できる、とても眺めのよい場所です。

黒船見張所 1 黒船見張所 2

黒船見張所 3
タグ:黒船 下田 幕末
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試衛館跡 [幕末維新]

幕末の新選組局長・近藤勇が京都へ行く前、江戸で開いていた剣術の道場の跡地です。

跡地といっても、正確な場所は特定されていないようで、現地も非常にわかりにくいです。行ってみると、案内柱が1本あるのみで、また当時の面影を残しているであろうものは、無人の神社くらいしかありません。

場所は東京・新宿区内にあり、都営地下鉄大江戸線の牛込柳町駅から徒歩数分のところです。大久保通りを神楽坂方面に向かい、市谷柳町交差点を過ぎて焼餅坂の途中、柳町病院の脇の路地を南に入っていくとよいでしょう。

試衛館跡 1 試衛館跡 2
試衛館跡 3
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上野の西郷さん [幕末維新]

渋谷の忠犬ハチ公と並んで、日本で一番有名な銅像ではないかと思います。しかもそれが実際の本人とは全然似ていないという、いわくつきの銅像です。JR山手線の電車の窓からも、ほんの一瞬ですが、遠巻きに眺めることができます。

そもそもは西郷隆盛本人の写真が全く残っていないというのが、こういう銅像になってしまった一番の原因なのでしょうが、弟の西郷従道の顔まで参考にして造られたようですので、製作者もかなり苦肉の策だったのではと思います。

銅像の除幕式に出席した西郷隆盛の妻が、その銅像の姿を見て、こんな顔はしていなかったと言った話は割と知られていますが、それだけではなく、外出する時にはこんなだらしない格好はしていなかったとも言っていたそうです。

歴史資料の世界では、いわゆるフルベッキ写真という、幕末に佐賀で撮られた集合写真に、西郷隆盛が写っているようだと、一時期注目を集めたようです。しかし残念ながらこれはどうも別人らしいという説が、現在では有力な様子です。

それにしても、ここまで虚構の姿が一般人の認識として広まってしまうというのは、水戸黄門並みかも知れません。

西郷隆盛銅像 上野
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西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地 [幕末維新]

明治維新の際、勝海舟と西郷隆盛が会見して、その結果新政府軍による江戸城総攻撃が回避されたことはよく知られていますが、実はその前に旧幕府軍と新政府軍の間で事前交渉が行われていたことは、あまり知られていません。

勝海舟と西郷隆盛の会見のわずか数日前のことでしたが、山岡鉄舟は勝海舟の使者として、当時江戸に向け進軍中だった新政府軍の西郷隆盛と、静岡で会見しました。

その会見の地に石碑があります。私も通りすがりに偶然見つけたので、正確な場所は記憶していませんが、静岡鉄道の新静岡駅の近くだったと思います。静岡市指定史跡となっています。

山岡鉄舟は勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。維新後は静岡藩や新政府の役職などを経て、明治天皇の侍従を務めたりもしています。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地 石碑
VFSH0104.JPG

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勝海舟・西郷隆盛会見の地 [幕末維新]

勝海舟と西郷隆盛の会見は、幕末の一コマとして知られていますが、その場所は意外と知られていないかも知れません。

東京のJR田町駅の少し北、現在の三菱自動車本社あたりが、その場所です。当時は薩摩藩の屋敷があり、そこで1868年の3月に、両者の会見が行われました。この会見により、新政府軍による江戸城総攻撃が中止となり、江戸は戦火に包まれるのを免れることになりました。

現地には石碑があります。石碑の下には、案内板も埋め込まれています。

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石碑には西郷吉之助書とありますが、本当に本人の書なのか、何となく疑問もあります。

西郷は1877年(明治10年)の西南戦争で亡くなっていますから、本人が書いたとすれば、会見後の10年の間ということになります。そもそもこの時期に、この会見の地に記念碑の類を建てることが想定されていたのかどうか、という点が少々疑問です。私が知らないだけかも知れませんが。

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徳川慶喜ゆかりの地 [幕末維新]

大政奉還をした江戸幕府第15代将軍として知られている徳川慶喜ですが、その慶喜に関係のある土地は、各地に色々あります。徳川慶喜の足跡を少し振り返ってみます。

生まれは水戸藩の上屋敷だったといわれています。現在は庭園部分のみ小石川後楽園として残されていますが、屋敷はちょうど東京ドームのあたりだったようです。

こちらが小石川後楽園です。

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その後幼少時は水戸で育ち、徳川御三卿の一橋家へ養子に入ります。一橋家は現在の大手町の合同庁舎がある辺りでしょうか。

その後朝廷から禁裏守衛総督を任命され、江戸を離れ京都へ向かいます。将軍というと江戸城が連想されますが、実は慶喜は将軍在位中もずっと京都にいて、江戸城に入ったのは、鳥羽伏見の戦いで敗れた後のことです。江戸城無血開城の際には、既に城を出て謹慎生活に入っていましたので、江戸城にいたのは、ほんの数ヶ月ということになります。

こちらが江戸城天守閣跡からの眺めです。

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明治新政府によって徳川家の静岡への移封が決定され、それに伴い慶喜も静岡に移ります。そこで約30年間を過ごすことになります。

最初は宝台院という寺院で謹慎し、謹慎が解けた後は、静岡の紺屋町の元代官屋敷に移ります。ここは現在、浮月楼という料亭になっています。その後屋敷のすぐ近くに東海道線が開通すると、騒音を嫌って、市内の西草深町へ移っています。

こちらが浮月楼です。

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60歳を過ぎ、勝海舟らによる環境整備もあって、明治30年にようやく東京へ戻りますが、最初に住んだのは巣鴨でした。巣鴨の屋敷跡は、中山道に面していて巣鴨駅からすぐのところですが、現在は土地が細分化されてしまっていて、全く面影はありません。一応歩道に標識は立っています。

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巣鴨に山手線が開通すると、騒音を嫌って小石川の小日向に転居します。ここで大正2年に死去するまで暮らすことになります。

小日向の屋敷跡は、丸ノ内線の茗荷谷駅から歩いて十数分のところにあります。少し前まで財務省の職員住宅でしたが、売却されたようで、現在は国際仏教学大学院大学の所有地となっています。「徳川慶喜終焉の地」という標識が道端に立っています。

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流山 近藤勇陣屋跡 [幕末維新]

千葉の流山というと、最初は東京の通勤圏という印象を私は漠然と持っていたのですが、実は歴史のある街でもあります。数年前に一度足を運んだことがあります。大河ドラマを毎年見ている人はご存知かと思いますが、ここは実は新選組に関係があります。

総武流山電鉄で終点の流山まで行きました。この私鉄、都会の中のローカル線という感じです。単線で、車両も西武鉄道のお古っぽいです。これでも平日の朝晩は通勤通学客できっと混むのでしょう。

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終点の流山駅もローカルな風情たっぷりです。改札は無人。でも自動改札ではなく、PASMOも使えませんでした。

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改札を出て駅前に出ると、正面に新選組の案内板が目に入ります。駅から歩いて5分くらいのところに新選組の陣屋跡があります。

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陣屋跡は住宅街の中にありました。蔵作りの建物の前に、案内板や石碑がありました。隣からは住民の話し声なども聞こえました。

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1868年1月の鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組は、江戸へ戻ったのち甲州へ赴き新政府軍と戦いますが再び敗れ、江戸へ戻ってきます。4月になり流山へ入ったのですが、ここで新政府軍に包囲されてしまいます。新選組は数ヶ所に分駐していたようで、近藤勇と土方歳三は別々の場所にいました。

近藤勇は大久保大和と称して投降しますが、のちに近藤勇であることを見破られてしまいます。そして近藤勇は板橋に護送され、斬首されてしまいます。この流山は近藤勇と土方歳三の離別の地とされています。その後土方歳三はこの地を去り、宇都宮、会津、仙台を経て箱館へと向かうことになります。
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土方歳三の故郷 [幕末維新]

数年前に、東京・日野市の土方歳三の生家周辺を歩いてみました。

土方歳三は、1835年に日野の農家に生まれ、最初は薬の行商をしていたようです。1863年に将軍家茂上洛警護のために募集された浪士隊に加わり、これがその後新選組に発展します。新選組では副長となり、局長の近藤勇とともに京都で尊攘派浪士の取り締まりにあたります。鳥羽伏見の戦いでは、負傷を抱え戦闘に加わらなかった近藤に代わり新選組の指揮をとりますが敗れ、その後江戸を経て甲府、宇都宮、会津と転戦し、榎本武揚に合流し箱館政府に加わります。その際、陸軍奉行並に選ばれているところからも、周囲に実力を認められる存在だったようです。1869年の五稜郭の戦いで敵の銃弾に倒れたといわれています。

さて、まずは土方歳三資料館を目指しました。場所は多摩都市モノレールの万願寺駅から徒歩2~3分です。立川から3駅、高幡不動から1駅、モノレールができて随分便利になりました。毎月第1、第3日曜のみ見学できます。私が行った日はあいにく休みでした。

行ってみると、ごく普通の民家です。土方歳三の子孫の家のようで、近年建替えられたらしいです。門を入ると少し先に胸像があります。門の格子の間から写真を撮ってみました。洋装の写真は有名ですね。京都の芸者にめちゃくちゃモテたらしいですが、確かにそういう雰囲気はありますね。

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そこから少し歩いて、墓のある石田寺(せきでんじ)へ行きました。歩いていると気がつくのですが、この近辺は土方姓ばかりです。宅地化が進んでいますが、まだ多少畑地もみられます。

石田寺の門は閉まっていましたが、脇の通用門らしきところから入ってみました。訪問者が多いようで、一応歩くルートが示されています。土方歳三の大きな石碑が目に入ります。

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そこから目と鼻の先に土方歳三の墓があります。墓といっても骨は納められていないようです。他の墓を見ても土方姓が多いので、案内板がなかったら本当にどれが土方歳三の墓なのかわかりません。

多少時間があったので、更に高幡不動まで足を伸ばしました。暑かったのでモノレールに乗りましたが、1駅だと100円でした。

高幡不動尊の境内に入ると左手に土方歳三の銅像と土方歳三と近藤勇の顕彰碑が並んであります。ここの寺は多摩では有名で、正月などはかなり混雑するようですが、この日はガラガラで、門前の土産物屋も暇そうでした。ここにある銅像は新選組ファンには割と知られているようですね。

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