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八百長相撲に関する玉木正之氏の見解 [相撲]

ガッツポーズ論争などにまぎれて一服感のある八百長騒動。一連の八百長裁判でも、一審は講談社側の敗訴でした。その前の、大麻騒動の時の若ノ鵬による八百長暴露も、中途半端な形で終わりました。

ところで昨年の「新潮45」12月号で、スポーツライターの玉木正之氏が独自の八百長論を展開していました。タイトルも「大相撲、八百長でなぜ悪い」と実にストレートで、大新聞が絶対に書けないような内容でした。

冒頭に、『相撲は神事であり興行である。力士の「阿吽の呼吸」を「八百長」と非難するのは、野暮と無粋の極みである。』とありました。

記事では更に、週刊現代に書かれていたことを、おおよそ事実であると思っている、とした上で、相撲はスポーツであると同時に、神事や興行としても存在していると論じ、そこに存在する「情」や「阿吽の呼吸」「気」といったものは相撲の一種の美徳である、と展開されています。

新潮社というと、週刊新潮での編集部ノーチェックの丸投げ記事で次々と訴訟を起こされ、敗訴を連発しているのは記憶に新しいですが、その新潮社がスポーツライターの発言とはいえ「週刊現代の記事はおおよそ事実と思う」と載せているのは、少々興味を引くところではありました。

話は本筋に戻りますが、私もこれまで大相撲の八百長疑惑に関する記事を色々と読むうち、八百長というのはもしかすると日本の文化の一部ではないか、スポーツ以外の世界でも色々と形を変えて日本の中に存在するのではないか、という気がしていました。談合やシャンシャン総会、やらせ番組、予定調和なども、この類ではないでしょうか。

この記事の主張内容にも何となくそれと似た空気を感じました。私の場合は単なる直感で、この玉木氏の文章はきちんと整理し論理付けられていますから、全然レベルが違いますが。

一方で、大相撲でそういった行為が激増しシステム化され、相場の金額まで形成される状況は、さすがに目に余るというような趣旨のことも書かれていました。確かにそこまで来ると、これは文化の伝承という範囲を逸脱しているだろうと思います。

全体的になかなか難解でしたが、相撲を日本文化から考えた内容で、非常に奥が深い記事でした。

余談ですが、この記事の中で、「出来山」という言葉が紹介されていました。対戦する力士同士が勝敗の行方をあらかじめ決めている一番を「出来山」というそうです。「出来レース」という言葉はこの出来山から来ているようです。初めて知りました。

今まで私は、「出来山」というのはただ単に大相撲の年寄名跡の一つだと思っていました。現在の出来山親方は元関脇出羽ノ花ですが、現役時代はガチンコ力士だったといわれており、その力士の取得した年寄株が「出来山」というのは、何とも皮肉な話です。
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