徳川慶喜 増補版 [歴史本]
中公新書から出ています。著者は松浦玲です。初版は75年に発行され、この増補版は新たな参考文献を加え97年に発行されています。
私が徳川慶喜をまともに知ったのは、98年のNHK大河ドラマの時でした。それ以来、徳川慶喜に関する本は何冊か読んでいますが、この本はそれらよりかなり詳しく書かれていました。ですので、初心者の人にはこの本はちょっとしんどいかも知れません。
徳川慶喜というと、江戸幕府第15代将軍で、大政奉還をした人物として教科書に載っていますが、実は将軍になるまでに複雑な経緯をたどっています。
水戸徳川家・徳川斉昭の七男として生まれ、徳川御三卿・一橋家に養子に入り当主となります。その後文久の幕政改革により、まだ若年だった14代将軍家茂の将軍後見職となりますが、朝廷との政治的駆け引きの中で職を辞し、今度は一転して朝廷からの任命により禁裏守衛総督となります。
慶喜なりに幕府の利益を考え京都で奮闘するものの、京都の情勢に疎い幕府首脳からは、朝廷を利用して自分が幕府の実権を握ろうとしているのではと疑念を持たれたり、なかなか慶喜の意図が伝わらず、朝廷と幕府の間で宙に浮いた存在だったことが、この本からは読み取れます。
またこの本では、慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて謹慎した後のことについても詳しく書かれています。約30年間の静岡での隠居生活の後、東京に戻り公爵の爵位を授けられ、大正2年に東京で亡くなっています。結果的に、幕末維新の他の登場人物たちよりも長生きしています。
渋沢栄一らかつての家臣が慶喜の伝記を編纂するために、慶喜から直接話を聞いたりする様子も書かれています。慶喜を招いて質問する会合は合計17回も開かれたそうです。伝記は本人の死後作られることが多いですが、慶喜の場合は存命中だったため、当の本人に直接確認しながら編纂が進められました。
ちなみに慶喜自身は大政奉還という言葉は使わず、一貫して「政権返上」という表現を用いています。また、将軍後見職については、実際は何の権限も与えられていなかったと語っています。
巻末には、慶喜が撮影した写真なども載せられています。慶喜は明治の世では趣味に没頭し、写真にも相当凝ったようです。慶喜の直系の子孫はカメラマンになったりもしています。弟の徳川昭武も写真を数多く撮っていて、庶民を撮影する慶喜の姿を昭武が写したという珍しい写真もあります。
私が徳川慶喜をまともに知ったのは、98年のNHK大河ドラマの時でした。それ以来、徳川慶喜に関する本は何冊か読んでいますが、この本はそれらよりかなり詳しく書かれていました。ですので、初心者の人にはこの本はちょっとしんどいかも知れません。
徳川慶喜というと、江戸幕府第15代将軍で、大政奉還をした人物として教科書に載っていますが、実は将軍になるまでに複雑な経緯をたどっています。
水戸徳川家・徳川斉昭の七男として生まれ、徳川御三卿・一橋家に養子に入り当主となります。その後文久の幕政改革により、まだ若年だった14代将軍家茂の将軍後見職となりますが、朝廷との政治的駆け引きの中で職を辞し、今度は一転して朝廷からの任命により禁裏守衛総督となります。
慶喜なりに幕府の利益を考え京都で奮闘するものの、京都の情勢に疎い幕府首脳からは、朝廷を利用して自分が幕府の実権を握ろうとしているのではと疑念を持たれたり、なかなか慶喜の意図が伝わらず、朝廷と幕府の間で宙に浮いた存在だったことが、この本からは読み取れます。
またこの本では、慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて謹慎した後のことについても詳しく書かれています。約30年間の静岡での隠居生活の後、東京に戻り公爵の爵位を授けられ、大正2年に東京で亡くなっています。結果的に、幕末維新の他の登場人物たちよりも長生きしています。
渋沢栄一らかつての家臣が慶喜の伝記を編纂するために、慶喜から直接話を聞いたりする様子も書かれています。慶喜を招いて質問する会合は合計17回も開かれたそうです。伝記は本人の死後作られることが多いですが、慶喜の場合は存命中だったため、当の本人に直接確認しながら編纂が進められました。
ちなみに慶喜自身は大政奉還という言葉は使わず、一貫して「政権返上」という表現を用いています。また、将軍後見職については、実際は何の権限も与えられていなかったと語っています。
巻末には、慶喜が撮影した写真なども載せられています。慶喜は明治の世では趣味に没頭し、写真にも相当凝ったようです。慶喜の直系の子孫はカメラマンになったりもしています。弟の徳川昭武も写真を数多く撮っていて、庶民を撮影する慶喜の姿を昭武が写したという珍しい写真もあります。
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