SSブログ

PHP文庫「松平容保」 [歴史本]

著者は葉治英哉です。この文庫の伝記物のシリーズは、伝記というよりは歴史小説風で、かなり創作が入っていたりするのですが、この「松平容保」に関しては、資料や文献も多く引用されており、史実をかなり反映させているように思います。

松平容保は幕末の会津藩主で、「まつだいらかたもり」と読みます。

元々は美濃高須藩に生まれ、会津藩に養子に入っています。ちなみに兄慶勝は尾張藩へ、また兄茂徳は一橋家へ、弟定敬は伊勢桑名藩へ養子に入り、明治維新を迎えています。

会津藩は幕末に攘夷の嵐が吹き荒れる中、幕閣からの再三の説得により京都守護職を引き受けざるを得なくなり、京都の治安維持にあたることになります。またこの頃、弟定敬も京都所司代となり、兄弟二人が京都で幕府を支えていました。徳川慶喜が15代将軍になった頃を指して、一橋家出身の慶喜と合わせて、一会桑政権とも呼ばれています。

在京大名の中で孝明天皇から最も信頼の厚かった松平容保ですが、会津藩は新選組を保護下においていたこともあり、長州などから恨みを買う立場となり、鳥羽伏見の戦いの後は一転して朝敵の汚名を着せられることになります。

司馬遼太郎は確か東北人を「利害より道理を重んじる」と評していましたが、この松平容保からもそういうものを感じます。

会津藩にとっては百害あって一利なしの京都守護職の役目を引き受け、徳川慶喜には鳥羽伏見の敗戦の際に無理やり大坂城から江戸まで同行させられながら、江戸到着後には早々に江戸城登城を禁止され江戸から追い出される形となってしまいます。そして江戸城総攻撃中止の代償のごとく、会津は新政府軍の格好の標的とされてしまいます。

降伏・謹慎の後、青森の下北半島に名ばかりの3万石を与えられ、会津藩は「斗南(となみ)藩」となりますが、数年後に廃藩置県を迎えます。容保はその後東京移住を経て、日光東照宮の宮司となり、さしたる弁解も一切しないまま一生を終えています。

現代人や西洋人の感覚を当てはめてしまうと、松平容保は単なる要領の悪い、自己主張の下手な人間に思われてしまいかねないですが、私は松平容保の精神性に一種の品格のようなものを感じます。

しかしこれは松平容保に限った話ではなく、この時代には他にもそういう武士はたくさんいたと思われます。幕末維新に来日した西洋人の中には、当時の日本人たちを見て、まるで神様のような人格の持ち主だと評した人もいます。

今の日本からはとても想像がつきませんが、単純にこの時代の日本人が我々現代人より優れていたというわけでもないでしょうから、こういう人たちを生み出した背景というものにも目を向けなければならないでしょう。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

ちょっと甘いものかの香織 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。