小栗上野介生誕の地 [旧居跡]
幕末の幕府勘定奉行・小栗上野介(忠順)の生誕の地が、東京・御茶ノ水駅のすぐ近くにあります。
東京の神田駿河台、現在はYWCAの建物のある辺りです。神田駿河台は江戸時代、武家屋敷が立ち並んでいました。
小栗家は徳川家康の時代からの旗本で、小栗上野介は幕末期に勘定奉行を4度務め、1860年には34歳で幕府使節団の事実上の実務代表者として米国を訪問し、通貨の交換比率の是正交渉に成功したりもしています。
フランスからの援助を得て横須賀製鉄所(造船所)を建設したことでも知られ、幕末期の倒れかかった幕府を中枢で支えていた存在でしたが、鳥羽伏見の戦いの後に主戦論を唱え徳川慶喜に罷免され、領地の上野国権田村(現群馬県高崎市:旧倉渕村)で隠居生活を始めていたところ、新政府軍に反逆の罪を着せられ、捕えられ斬首されてしまいました。
東京の神田駿河台、現在はYWCAの建物のある辺りです。神田駿河台は江戸時代、武家屋敷が立ち並んでいました。
小栗家は徳川家康の時代からの旗本で、小栗上野介は幕末期に勘定奉行を4度務め、1860年には34歳で幕府使節団の事実上の実務代表者として米国を訪問し、通貨の交換比率の是正交渉に成功したりもしています。
フランスからの援助を得て横須賀製鉄所(造船所)を建設したことでも知られ、幕末期の倒れかかった幕府を中枢で支えていた存在でしたが、鳥羽伏見の戦いの後に主戦論を唱え徳川慶喜に罷免され、領地の上野国権田村(現群馬県高崎市:旧倉渕村)で隠居生活を始めていたところ、新政府軍に反逆の罪を着せられ、捕えられ斬首されてしまいました。
タグ:幕末
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