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戊辰戦争と白虎隊 [幕末維新]

幕末維新の戊辰戦争の一つの出来事として、割と一般にも知られているのが、会津の白虎隊ではないかと思います。これまでも年末年始になるとよく長時間ドラマで放送されたりもしています。

会津藩の軍編成は年齢別になっていて、白虎隊以外にも青龍隊、朱雀隊、玄武隊などがありました。白虎隊は16~17歳で編成されていて、全体で300名前後いたようです。その白虎隊の一部が城の方面に上がった炎を落城と誤認して、19名が自害してしまったわけですが、指揮していた成年藩士とはぐれてしまったことが、この悲劇の一因になっているようです。

ドラマで度々とり上げられる白虎隊ですが、私自身は何となく違和感を持っています。というのも、この白虎隊の事件は会津の戊辰戦争全体から見れば、まだほんのさわりの一部分であり、城は落城どころかそれから1ヶ月も持ちこたえて、本当の戦はそれからだったからです。

会津藩は女まで志願して戦場に繰り出したりしたケースもあった一方で、19名もの若い男子が勘違いによって自ら命を絶ってしまったわけで、考えれば痛ましい限りです。また一方で城下においては、敵の手にかかるよりはと、家老の妻子が屋敷で集団自決したりしていて、悲劇は白虎隊ばかりではありません。

また、かつてお家断絶の危機を会津に救ってもらった隣の上杉家の米沢藩はどう動いたのかとか、今も因縁が続く長州藩はこの時実際はどうだったのかとか、もっと会津戦争全体を見渡す目線があってもよいのではとも思いますが、欲張り過ぎかも知れませんね。

古くなりますが、80年のNHK大河ドラマ「獅子の時代」では、架空の会津藩士平沼銑次を中心に、白虎隊とは違った会津戦争の側面が(さらっとではありますが)捉えられていたような気がします。

徳川慶喜 [幕末維新]

今日はちょっと歴史の穴場を。

徳川慶喜といえば、大政奉還をした江戸幕府の最後の将軍というのはよく知られていると思います。鳥羽伏見の戦いで敗れて、大阪から江戸へ逃げ帰ったところまでは教科書にも載っていますが、その後どうなったかは殆ど注目されていませんね。

この徳川慶喜ですが、結構長生きします。将軍の頃が30そこそこで、77歳まで生きています。亡くなったのは大正2年で、明治天皇や維新の三傑をはじめとして明治維新の主要人物は、暗殺されたり病に倒れたりで、大半が先にいなくなっています。

ではその間どこで何をしていたのか?実は維新後30年近く、静岡で隠居生活を送っていました。公式な謹慎処分は最初の2年間だったようですが。明治維新で幕府が消滅して、徳川家はその後廃藩置県まで静岡藩70万石の一大名として扱われます。慶喜も最初は水戸で謹慎していましたが、それに伴い静岡に移ります。

慶喜ゆかりの地は静岡駅からもそんなに遠くありません。最初に入ったのが宝台院という寺院で、その後そこからほど近い紺屋町の旧代官屋敷に移ります。現在は浮月楼という料亭になっています。値段が値段ですので、我々庶民がちょっとランチという訳にはとてもいきませんが。入口脇に「徳川慶喜屋敷跡」という石碑があります。

その後すぐ近くに東海道線が開通し、慶喜は騒音を嫌って市内の西草深の方へ移ります。これがどこなのかはまだ知らないのですが。

静岡時代の慶喜は趣味に生きることになります。油絵や鷹狩、写真、囲碁等々。写真は最初の頃は写真師に撮らせ、その後は自分でも撮るようになったようですが、当時の静岡の様子を今に残す貴重な資料となっています。

静岡は歴史の宝庫です。慶喜が静岡で余生を送っていたというのは、98年に大河ドラマで慶喜が採り上げられ色々な特集が組まれるまで私も全く知りませんでした。駿府は今川や家康だけではありませんでした。

明治30年に勝海舟の尽力もあって東京に戻り、天皇に謁見しその後公爵となります。住居は巣鴨を経て今の文京区の茗荷谷の近くに住むことになります。現在は確か財務省の職員住宅になっていると思います。当時の面影は銀杏の木1本しかないのですが。
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