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徳川慶喜ゆかりの地 [幕末維新]

大政奉還をした江戸幕府第15代将軍として知られている徳川慶喜ですが、その慶喜に関係のある土地は、各地に色々あります。徳川慶喜の足跡を少し振り返ってみます。

生まれは水戸藩の上屋敷だったといわれています。現在は庭園部分のみ小石川後楽園として残されていますが、屋敷はちょうど東京ドームのあたりだったようです。

こちらが小石川後楽園です。

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その後幼少時は水戸で育ち、徳川御三卿の一橋家へ養子に入ります。一橋家は現在の大手町の合同庁舎がある辺りでしょうか。

その後朝廷から禁裏守衛総督を任命され、江戸を離れ京都へ向かいます。将軍というと江戸城が連想されますが、実は慶喜は将軍在位中もずっと京都にいて、江戸城に入ったのは、鳥羽伏見の戦いで敗れた後のことです。江戸城無血開城の際には、既に城を出て謹慎生活に入っていましたので、江戸城にいたのは、ほんの数ヶ月ということになります。

こちらが江戸城天守閣跡からの眺めです。

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明治新政府によって徳川家の静岡への移封が決定され、それに伴い慶喜も静岡に移ります。そこで約30年間を過ごすことになります。

最初は宝台院という寺院で謹慎し、謹慎が解けた後は、静岡の紺屋町の元代官屋敷に移ります。ここは現在、浮月楼という料亭になっています。その後屋敷のすぐ近くに東海道線が開通すると、騒音を嫌って、市内の西草深町へ移っています。

こちらが浮月楼です。

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60歳を過ぎ、勝海舟らによる環境整備もあって、明治30年にようやく東京へ戻りますが、最初に住んだのは巣鴨でした。巣鴨の屋敷跡は、中山道に面していて巣鴨駅からすぐのところですが、現在は土地が細分化されてしまっていて、全く面影はありません。一応歩道に標識は立っています。

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巣鴨に山手線が開通すると、騒音を嫌って小石川の小日向に転居します。ここで大正2年に死去するまで暮らすことになります。

小日向の屋敷跡は、丸ノ内線の茗荷谷駅から歩いて十数分のところにあります。少し前まで財務省の職員住宅でしたが、売却されたようで、現在は国際仏教学大学院大学の所有地となっています。「徳川慶喜終焉の地」という標識が道端に立っています。

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