SSブログ
歴史的建造物 ブログトップ
- | 次の10件

東京オリンピック選手村宿舎 [歴史的建造物]

1964年に開催された東京オリンピック。その選手村があったのが、現在の代々木公園だということを、私は最近まで知りませんでした。

そして、その選手村の宿舎が、1棟だけですが現在も保存されています。オランダ選手の宿舎として当時使われていたものですが、代々木公園の原宿門を入ってすぐ右手の方にあります。

代々木公園は元々は旧陸軍の代々木練兵場のあったところで、戦後米軍に接収され住宅地として利用され(ワシントンハイツ)、オリンピック開催前に日本に返還されました。選手村の建物は、その米軍住宅をそのまま利用したものだったようです。

最近のオリンピックの選手村というと、高層マンションのような建物をよく連想しますが、東京オリンピックの選手村はそんな経緯もあって、建物は実にシンプルな印象を受けます。残念ながら中には入れないので、この建物1棟で何人が寝起きしていたのかはちょっとわかりませんが。

明治神宮のすぐ隣にありますので、参拝のついでに立ち寄ってみるのもいいと思います。東京の隠れた史跡です。

東京オリンピック選手村宿舎
東京オリンピック選手村宿舎 説明
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

野川の水車経営農家 [歴史的建造物]

東京・三鷹市の西のはずれにあります。調布市との境にほど近く、新選組局長・近藤勇の墓のある龍源寺からも徒歩圏内です。東京都指定有形民俗文化財にも指定されています。入場無料です。

この周辺は現在すっかり宅地化されていますが、そんな中でわずかに残る武蔵野の農村風景です。現地ではボランティアの人が丁寧に説明してくれます。

野川の水車経営農家 1
野川の水車経営農家 2

近くを流れる野川は、昭和40年前後に整備され、この農家から少し離れたところを流れていますが、それまでは、この農家まで川の水を引いてきて、水車を回していました。

水車は建物の中にあって、歯車が幾重にも重なり、全部ひっくるめるとかなり巨大です。実物を見ると、当時の木工技術の高さには本当に驚かされます。写真には撮りきれませんでしたが、一つの水車でこんなに色々な作業をやってのけるのかと思うほど、水力を本当に無駄なく利用しています。

野川の水車経営農家 3

幕末に日本に来た西洋人が、日本は動力(=蒸気機関など)を除いては技術水準がかなり高い、と評していたようですが、ここの水車の仕組みや構成している歯車などパーツの一つ一つを見れば、まさにその通りだと実感できます。

野川の水車経営農家 説明

なお、野川の対岸には、わさびの栽培地も保存されています。かつてこの一帯では台地の崖から出る湧水を利用して、わさびの栽培も行われていたようです。
タグ:無料 三鷹
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

調布飛行場に残る、太平洋戦争の痕跡 [歴史的建造物]

東京の調布飛行場の北の外れに、太平洋戦争の痕跡が今も残っています。鉄道の駅からはかなり離れているので、地元の人以外はあまり知らないのではとも思います。私も現地へ行って、たまたま見つけました。

調布飛行場の北東に接する部分が、現在公園として整備されていて、そこに掩体壕(えんたいごう)があります。

掩体壕という言葉は、私もこの場所へ来るまで知りませんでした。これは、戦闘機を空襲から守るための、防空壕のようなものといえばわかりやすいでしょうか。半円形のコンクリートの構造物で、この下に戦闘機を格納して隠すような格好になります。公園にはその模型もありました。

掩体壕 模型

調布飛行場周辺には、掩体壕は4基現存し、この公園内には、そのうちの2基が残っています。2基はいずれも金網に囲まれて、中に入ることはできませんが、北側の1基は、公園内の展望台から全貌を見ることができます。

掩体壕 大沢1号
掩体壕 大沢1号 正面
掩体壕 大沢1号 背面

掩体壕 大沢2号
掩体壕 大沢2号 正面
掩体壕 大沢2号 全体

調布飛行場は現在、伊豆諸島への小型航空機の発着場として利用されていますが、戦争中はここがまぎれもなく軍の飛行場だったことが、この掩体壕の存在からわかります。

調布飛行場 正面 調布飛行場

戦後65年が過ぎ、戦争体験世代の老齢化もかなり進んでいます。我々戦後世代が、戦争というものを頭でなく、心で少しでも感じ取るためには、実際に戦争を体験した人たちの生の声を対面で直接聞くのが一番だと思いますが、それができる機会も徐々に、かつ確実に減っています。

日本がかつて歩んだ破綻への道に再び突進することのないよう、戦争体験世代の証言を収録した映像や手記などを残す努力が、現在様々な方面でなされていると思います。

そうした生の声の力には遠く及ばないかもしれませんが、同時に、日本に残された戦争の傷跡を、一つでも多く保存し、一般人である我々がこの目で実際に見る機会を確保できたらと私は思います。戦争の痕跡を残す構造物、いわば戦争遺跡というようなものを、証拠品として後世にきちんと残す、ということです。

それらを我々が直に目にすることによって、確かに戦争というものが実際にこの日本であったのだということを、少しでも感じることができればと思います。頭や理屈でなく、たとえわずかではあっても、心でストレートに受け取ることができればよいなと思います。教科書上の出来事として片づけるのではなく、皮膚感覚を少しでも呼び起こす努力ができればと思います。

かつてはこういった戦争の遺物は、忌わしい記憶を呼び起こすものとして、消してしまう方向に力が働いていたのではと思いますが、戦後世代が大多数を占める時代ともなり、しっかり残した方がいい段階に入ったような気がします。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

松戸 戸定邸 [歴史的建造物]

ここも東京近郊の歴史の穴場の一つです。千葉県のJR松戸駅徒歩10分の丘の上にあります。読み方がちょっと難しいのですが、「とじょうてい」といいます。

ここは最後の将軍徳川慶喜の弟の徳川昭武(1853-1910)の屋敷だったところです。1884(明治17)年に建てられて、1951(昭和26)年に松戸市へ寄贈されています。建物は2006年に国の重要文化財になっています。

この写真は玄関です。ここで靴を脱いで上がります。

3016835

建物は非常に風通しがよく、暑い日でも中は思ったより涼しいです。庭からは江戸川を越えて東京都内が見渡せます。残念ながら庭に立ち入ることはできないので、建物全体の写真は撮ることができませんでした。

3016836

3016837

徳川昭武は幕末の1867年、13歳で将軍慶喜の名代として、パリ万国博覧会に派遣され、ヨーロッパを歴訪しています。明治維新を機に帰国し、最後の水戸藩主になります。その後1883年には29歳の若さで水戸徳川家当主の座を退き、翌年この戸定邸に移り住んでいます。

徳川昭武は慶喜と同様に写真が趣味で、明治期の松戸近辺の写真を数多く残しています。これらの写真は戸定邸の隣にある戸定歴史館に所蔵されています。

その中にとある農家一家を写した写真があるのですが、殿様に写真を撮られるということで、その家族が妙に緊張してしまったり下を向いてしまったりしているのが面白いところです。常に展示されているどうかちょっとわかりませんが、ここへ行ったらぜひおすすめの1枚です。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行
- | 次の10件 歴史的建造物 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。